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この世に無駄なものはひとつとしてない

こんにちは。

田園調布で、書道教室を主宰しております、佐藤清景(さとうせいけい)です。

 

よく書道教室を開いている方々と話すのですが、

よく真面目に通って下さっている方が急に辞めることがあるよねって。

あまりに熱心なので、こちらもやはり熱量があがり教えます。

が、急に辞めるのです。

周りに聞くと、よくある話なんだそうです。

 

実は私自身がガッカリします。

そしてその気持ちをしばらくの間、引きずることになります。

なんで引きずるのかなぁとずっと考えていました。

最近、腑に落ちました。

えー、なんで辞めるの?

あれもやって、これもやって一生懸命教えてあげたじゃない⁈

何で?

結局、こんなにしてあげたんだからと

何かしらの見返りを求めているのだと思いました。

 

この気持ちは親子間、友達との関係、

恋人、夫婦間においてもあるあるですね。

特に親子間、

また親しくなればなるほど人は相手の為に何かしてあげたい、

役に立ちたいと思うもの。

それは相手にとって自分が一番大事な存在で在りたいと思うからです。

 

しかしです。

何かしてあげたい、してあげた。

はたして、相手はそれを欲していたか否かです。

立場を逆にして考えとみてください。

一生懸命してくれてたけど、感謝はしてるけど、

ちっとも要らないんだよねってありますよね。

でも他人の本当に欲しいものにピントを100%あわせられることは至難のわざ、笑。

 

解決法はひとつだけ。

決して見返りを求めないこと。

やって差し上げることができた、誰かの為に動けた。

それでおしまいにすることです。

よく、子供にあれも習わせてあげた、高い塾にわざわざ入れてあげた。

お金払ってあげた。

あなたのためを思ってしてあげたのよ。

あるあるです。

だけど、子供は望んでいましたか?

たぶん、クールに親は熱心に色々やってるけどと、客観視しているはず。

 

これだけやったのだから、見返り、またはよい結果を期待するのはお門違いなのです。

これだけやったのは私で、やりたいからやったわけで、それで終了です。

このような気持ちは’我’が全面に発動しますから、

もちろんいい結果はついてきません。

 

見返りを求めるのは、自分のやったことを無駄にしたくないと思うから。

つまり、マイナスになりたくない、負けたくないもあるのかと思います。

 

この世の素晴らしいことのひとつに

“無駄”があると思っています。

寄り道、全然必要ないけれど、心ひかれるもの等、

ほんとはこの世に無駄なものはひとつとしてない説に1票!

やってあげたって粘着質な感じがします。

そうそうやってあげたことへの執着もはずす。

すぐにはずれなくても、

あー、私はこんな風に感じてるんだなぁ

と客観視できればいいのかなと思います。

そのうち、あー、結局、縁がなかったのねと思うもの。

 

心がなんかもやもやした時、般若心経書きに教室にいらしてみませんか?

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